約束処方
今日も朝から調剤室の中では、七人の薬剤師があわただしく動き回っていた。
「ルルル」。電話が鳴り続ける。
「内科のKです。感冒薬、何がいいでしょう」
内科のK先生は着任2日目である。当病院の扱っている薬がまだ頭に完璧に入ってないので、お困りの様子であった。
「先生、先日ご説明しました資料の中に約束処方リストを入れておきましたが、ご覧いただいたでしょうか。それと同じものが今いらっしゃるデスクの中ほどにあります。…はい、それが約束処方です。感冒薬は咳止めの入ってないAAPCと、これにメチエフ、フスタギンを入れたACCがあります。このどちらかと他の錠剤を組み合わせてはどうでしょうか」
「はい、分かりました」
「ルルル」。また電話である。
「円形脱毛(語注参照)の薬、何がありますか」
名前も名乗らず問いかけるだけ。これはM医師の得意技である。私はゆっくりと丁寧に話しかける。
「先生、こんにちは。円形脱毛症用ローションというのをお作りできます。デスクマットに入れてある約束処方リストの最後をご覧下さい。これでいかがでしょうか」
「じゃあ、これにします。このローションの名前だけでいいのね」
「そうです。先生100ですか。200ですか」
「そうね。100でいこう。よろしく」
円形脱毛症用ローションは6種類の薬を混ぜてつくるので、手間暇がかかる。薬は処方箋が届いてから作り出すのが本当ではある。しかしこのような薬が必要な時はすぐに製剤し始め、患者の待ち時間短縮となるように気をつけるのが常である。間違いを起こさないように、確実に作業する薬剤師にまかせなければならない。そこで私はこの電話を終えると、薬剤師のTさんに声をかけた。
「円形脱毛症用ローション100mlが出ますよ。控えのメモを作って確実にね」。彼女はうなずくとすぐ準備にとりかかった。
約束処方はよく用いられる薬の組み合わせに対して、特別な名前をつけたものである。この名前の付け方はいろいろである。感冒薬のAPC(語注参照)処方は昔から広く用いられており、これを改変したのが当院独自のAAPCやACCである。また胃がドイツ語でマーゲン(Magen)なので、胃薬の1番や2番ということでM1とかM2と名前を付けたりしている。そして円形脱毛症用ローションのように、病名そのものから名前を付けることもある。
しばらくするとDさんが「円形脱毛、来ました」と処方箋を見せながら告げた。
「はーい、今出来ます。私にラベルと処方箋を下さい」
処方箋を確かめたTさんは調剤者の欄に印を押し、監査台に持って来た。出来上がった薬を最終的にチェックする監査をしていた私は、届いた薬の色合いや量、ラベル、処方箋など確かめた。「これでよし」と納得した上で処方箋の監査者欄へ自分の印を押した。これでようやく一丁出来上がりである。
約束処方は長年病院内で使われてきた。最近医薬分業(語注参照)で処方箋が病院外の保険薬局で調剤されるようになった。院外処方箋は医師が記入発行したものを患者が自分のかかりつけ薬局に持って行き、薬を受け取るやり方である。このやり方では約束処方は使えない。個々の薬品名記入を一つづつ見ていくやり方は特に少量づつの薬品量を組み合わせた場合、やや細かいことばかりに気を取られそうで気がかりには感じている。しかし個々の薬品名記入は、薬の組み合わせなどの相互作用チェックには見落としがないかもしれない。一般に院外処方箋となった時は複雑な調剤を心配し、PL顆粒(感冒用剤)やフロジン液(円形脱毛症などの薬剤)などの市販薬に変更していく場合が多い。このような約束処方に親しんだ古手の薬剤師にとっては、時代の流れを感じさせている現状のひとつである。
※語注
APC処方=アスピリン、フェナセチン、カフェインを混合製剤した鎮痛解熱剤
円形脱毛症=前触れ無く円形の脱毛斑を生じる疾患。通常頭部、眉毛、須毛、陰毛などにも及ぶことがある。病因は自律神経障害などが仮説としていわれている。
医薬分業=医師の診察と医師の発行した処方箋に基づく薬剤師の調剤行為を分業とする原則。処方箋による調剤行為は薬剤師のみに許されているが、我が国では医師自身による調剤も例外的に許されており、医薬分業の完全実施は達成されていない。