トレンタールが消えた

1999年9月14日午後4時過ぎ、上田病院では診療のピークを迎えていた。その忙しい最中、顔馴染みのMR(語注参照)氏がなにやら深刻な様子で現れた。

「先生、当社製品のトレンタール(語注参照)が先ほど有用性がないと判断されました。つきましては、ただ今をもってトレンタールのご処方中止をお願いいたします」と、一気にまくし立てた。

トレンタールは1977年から販売されてきた脳代謝賦活薬である。脳梗塞後遺症や脳出血後遺症に比較的よく用いられてきた。上田病院でも1ヶ月に約2000錠ほど使われていた。

私はそれなりに効果があると思っていたので、全面否定とは考えてもいなかった。とにかく棒立ちの製薬会社マンに出来るだけしっかりとした口調で答えた。「分かりました。今日はあと1時間で外来診療は終了です。明日は休日です。しかし明後日は脳外科の診療がありますからね。この日から使用中止の手配をしましょう。今日はお急ぎでしょうからこれだけにしましょう。また来週訪問して下さい。」

彼は冷静に事態を受け入れてもらえてホッとした様子で謝辞を述べ、退室した。さあ、私としてはふってわいたこの事件で、また一仕事である。

この日、外来業務終了後、薬剤師全員を集めこの事件について説明した。6人が一様に一瞬「えっ」と驚き、次に「またか」の顔をした。昨今、脳代謝薬の使用を制限する話題が続いていたからである。

翌15日の休日、やむをえず自宅で「急告、トレンタールについて」を作成した。9月16日の朝、私はいつもより1時間早く出勤した。急いで、パソコンとプリンターを作動した。「急告」と、イヤでも目を引くように赤色も鮮やかに、そのお知らせを印刷した。

その後、院長の了解をとり、9時20分、薬の情報管理をするDI業務(語注参照)担当の薬剤師沢田君を手招きした。出来上がったばかりの印刷物を示しながら、彼に申し渡した。「これを見せながらトレンタール取り扱いを本日ただ今から中止することを、各医師に直接説明して歩きなさい。外来の各診療デスクを回った後、医局へ行き、入院担当医師にも説明しなさい。それから各病棟に説明して回って下さい。よろしくね」彼にとっては、このような説明役ははじめてのことであった。やや緊張ぎみに「行ってまいります」と、フワフワした感じの足取りで出ていった。

沢田君を送り出した後、調剤室に残った薬剤師5人を集め、次の事を指示した。

  1. トレンタールの処方があった時、医師に必ず照会すること。

  2. 窓口ではトレンタールが中止になった患者へ、中止が分かるように説明すること。

  3. トレンタールに変わって別の薬が出た時も説明すること。

この日一日、窓口はトレンタールの説明でいつにも増して混雑した。何人かの脳梗塞後遺症の患者は、トレンタールがなければまた具合が悪くなるのではないかと、不安感をあらわにしていた。長い間この薬を飲み続けていた患者の心配は切実に見えた。こうして長年取り扱っていたトレンタールは、当院をはじめとして日本全国の病院から消えた。患者の気持ちを考え、納得の上での処方変更を行いたいのだが、現状は難しい。このような突然の取り扱い中止のやり方は正しいことなのか。また一つ、心のしこりが増えた気がした事件であった。

 


※語注


MR=(Medical Representative)医薬品情報担当者。製薬会社などで、医師に対して医薬品の情報を提供する係。従来はプロパーと呼ばれていた。


トレンタール=成分ペントキシフィリン。脳血栓に基づく後遺症の改善、脳梗塞後遺症や脳出血後遺症に伴う慢性脳循環障害による頭痛・頭重・めまい・しびれ感・睡眠障害の改善に適応する。ヘキスト社により1977年より製造販売されてきた。現在世界約百カ国で使用されている。1999年9月14日中央薬事審議会で有用性が認められず日本国内では医薬品として認められなくなった。


DI業務=(drug information)医薬品情報管理。文献や添付文書などの資料から医薬品に関するデーターを収集整理して医師をはじめとした医療関係者や患者へ情報を提供する。