ヒヤリハット報告
「危ないところでした。申し訳ありませんでした」と、主任看護師が申し出てきました。差し出された手には「ヒヤリハット報告書」がありました。検査室の酸素栓が一晩じゅう開放のままだったというのです。聞いた私は背筋がゾクッとしました。
酸素栓は一般病室のベッドの枕元にもあり、病院内ではほとんどの部屋に設置されています。そのうちの一室で患者様の検査が昨日行われ、そのあと栓を締め忘れ、けさ気づいたということでした。
たまたま換気扇が回ったままで、空気が流れていたため、酸素が部屋に充満していなかったのです。そうでなければドアノブを「カチッ」と回した途端に「ドッカーン」と大爆発が起こったかもしれません。
「今、田中一郎様にこの注射をしてきました。スタッフルームに戻ったところ、もう1セットがテーブルの上に、同じ患者様の分としてありましたけど、、、」。彼女の手には確かに田中様用の注射薬の瓶が空で握られていました。注射薬は前日に薬剤師が品揃えをします。そこで前日この仕事をしたC君に確かめるように指示しました。
しばらくして、「101号室田中一郎様と127号室田中次郎様の注射を、どちらも田中一郎様の名前にしたようです。私のミスでした。すみませんでした。部屋番号や薬の名前、色合いなどから、残ったひとつは田中次郎様のものと確認できました」とC君から報告があり、やれやれとホッと一息の私でした。
その後、彼にいろいろな注意をしました。今回の経過も含め、「ヒヤリハット」を書くこと、そして今後同様なことが起こらないための対策を考えてみることなどです。
ヒヤリハット報告書とは、医療事故には至らなかったが「ヒヤッとした、ハッとした」ことを書くものです。それには「いつ、どこで、何が」起きたか、また「その後の対処」を、報告者が記入するようになっています。そして今後、同様のことを起こさないために、どのように取り組めばよいかも合わせて書くように作られています。
この報告書は、私どもでは「医療過誤を含め原則的には見つけた人が書くこと」と決めています。また私は、医療事故防止対策委員会のマネージャー役をしておりますので、病院内で起きたことは手元に報告が来るようになっているのです。
このような報告があった場合、ことの経緯を詳しく調べ、業務を見直すために、関わりのあったスタッフと話し、記録をとります。またこれらは、内容を吟味して関係部署に連絡、二度と同じトラブルがないようにしなければなりません。そしてスタッフ教育も大切なので、これらのことを踏まえ、研修会なども行います。
ところがこの「ヒヤリハット」は、管理職とそうでない人では受け止め方が大きく違っていました。管理職ではない人たちは「始末書」と受け止めているようなのです。そこで私は機会あるごとに、この報告を個人ミスとしては捉えていない姿勢を、何度も強調しているのが現状です。このようなことを繰り返しながら、やっと「ヒヤリハット報告書」は、徐々に手元に届くことが多くなってきました。
最近は特に、報道などで医療事故が注目されています。これと前後して厚生労働省をはじめ、医師会、看護協会、薬剤師会などでも、リスクマネジメントに力を入れはじめました。しかし30年も病院で働いている私にとっては、医療事故はまだしも、「ヒヤリハット」は今も昔も存在しているというのが率直な感想です。
昔は「そのようなことは不注意!」「職務怠慢!」などと片付けられていたことも、近年は「人は失敗・思い違いをする動物である」と認識されています。その時々の失敗や思い違いを発見して未然に防ぎ、事故につながらないシステム作りが必要であるといわれています。
医薬品や医療機器が日々に新しく、また複雑になる一方の医療現場においては、ヒヤリハットや事故を減らすにはことさら努力が必要なのです。