母を語る

母文子は平成2年5月、兄の誕生日に亡くなった。脳梗塞の発作後一週間意識が戻らないまま旅立った。彼女は、私と兄が各々仕事などで忙しすぎることを気にしていた。命日を忘れないようにと彼女がこの日を選んで息を引き取ったように私には思えてならない。

文子は明治45年に石川県寺井町で九谷焼きの窯元の三女として生まれた。昔の食糧事情も影響したのであろうが姉弟が相次いで病気で亡くなり、思いがけず家の跡を継ぐ立場となってしまった。その頃文子の母ヤヨは旧家の嫁としてつらい生活を送っていた。ヤヨはこの家で文子までも病魔に犯されることを恐れていた。独断で文子を金沢の実家へ連れ出した。この事件でヤヨはまた大変ないじめにあったようだ。

文子は金沢で金城高等女学校に通った。この頃共立女子薬学専門学校が開校するというニュースがヤヨの父順剤に届いた。彼は文子の将来を考え、進学を勧めた。学業が好きだった文子は大喜びした。

薬専時代のはじめ、文子への仕送りは順調だった。しかし半ば頃より雲行きが怪しくなり、赤貧の生活になった。学友や学生寮の先生方に随分お世話になったと、よく思い出話をしていた。

田舎の文子の実家前に山本家があった。この家の三男亮三は当時早稲田に通う苦学生であった。2人は幼馴染であり東京でも親しくしていた。亮三が文子の寮に会いに行き、授業を抜け出しデートをしていたと彼女の古い友人から私はよく聞かされた。

文子は昭和10年共立薬専を第1回生として卒業した。薬剤師として東京の中山研究所に勤務した。その頃母ヤヨが死の床で亮三に文子を託した。彼はこの願いを了承し、昭和11年田中家の婿養子となった。

結婚した2人は東京では経堂に住まいを持ち、田舎の田中家を縁者に譲った。

田舎を捨てたつもりの若者2人は戦争で翻弄された。太平洋戦争が激しくなり、東京は空襲に明け暮れた。危険を感じ、昭和19年文子は3才の兄と乳飲み子の私を連れて、やっとの思いで田舎に疎開した。田舎に到着した翌日、下志津の陸軍病院より亮三危篤の知らせが入った。取るものもとりあえず、病院に行き、やっと彼の死に目に会えた。彼は戦死ではあったが国内での死であったため、勤務先の東京電力や軍の関係者多数が出席して葬儀が行われた。田舎へ帰った遺骨は田舎でも盛大にまつられた。この葬儀の写真がセピア色となって残っている。

文子は実家の離れで慎ましく親子3人どうにか生活していた。私が3才になった時、金品が手元になにも無くなった中で、薬剤師免許証だけが残っていた。彼女はやむを得ず、また薬剤師生活をはじめた。

文子はこうして50歳半ばまで薬剤師として仕事を続けた。しかし当時は40歳を目前にした女性が再び職を得て働くには厳しい時代だった。古手の薬剤師達が仕事の手を休めて無駄口をたたいていても文子は仲間に入れてもらえず、ただ与えられた仕事をこなすだけだった。この時の辛さは何年たっても忘れられなかったようであった。後年、私が薬学部進学を口にした時、彼女は泣いて反対した。今にして思えば、彼女が私の前で泣いたのはこの時だけだった。

退職後は謡いや読書の趣味を持ち、カルチャースクールにも通った。ラジオ英会話の勉強もし、彼女自身はそれなりに幸せな晩年を過ごしたと娘として実感している。

今、私は55歳になった。病院薬剤師として最終ラウンドが近づいている。私の娘はこの春共立薬科大学を卒業予定である。母が選んだ薬剤師の道は三代目に引き継がれようとしている。